でんた丸ブログ

昌平坂学問所

税理士法人 丸の内ビジネスコンサルティングは、丸の内にある岸本ビルの5階にあります。岸本ビルがある辺りは、江戸時代には林大学頭(だいがくのかみ)の屋敷がありました。大学頭とは、江戸幕府の学問所(学校)である昌平坂学問所(1870年に廃止されましたが、現在は湯島聖堂として残存。)の長官のことです。今回は、この昌平坂学問所についてみてみたいと思います。

1.江戸時代の教育

江戸時代は士農工商の身分制が確立しており、特に支配階級にある武士とそれ以外の庶民とは厳格に区別されていました。教育も武士の家筋にある武家のための教育と庶民に対する教育とが分かれており、前者は藩校が担い、後者は寺子屋が担いました。そして、江戸時代における幕府直轄の最高学府であり、諸藩の藩校の模範となったのが、昌平坂学問所です。

2.昌平坂学問所

諸藩の藩校の模範である昌平坂学問所には、藩が藩士(藩の武士)の中から才知の優れている者を選抜し留学させたり、昌平坂学問所の出身者を藩が儒臣(儒学をもって仕える臣下)として招くということがありました。

では、昌平坂学問所では何が教えられていたのでしょうか。江戸時代初期の儒学者である林羅山(1583年~1657年)は儒学の中でも朱子学を学び、徳川家康は、その林羅山を1607年に登用しました。その後、1790年のいわゆる「異学の禁」以降、幕府が正しいと認めた学問は朱子学となりました。従って、1797年に幕府の直轄となった昌平坂学問所では朱子学が教えられました。朱子学とは、簡潔に説明すると、中国の孔子の唱えたことを体系化した儒学の中の一学説であり、実践道徳を内容とするものです。

林羅山の子孫である三代目の林鳳岡(ほうこう、1644年~1732年)が、1691年、5代将軍の徳川綱吉により当時の湯島聖堂(当時の湯島聖堂は、幕府の保護を受けていましたが、1797年に幕府の直轄となり、昌平坂学問所となりました。)の大学頭に任じられたことを皮切りとして、代々、林家が大学頭を世襲し、幕府の学問所(学校)を統轄する地位に就きました。

因みに、現在の東大のルーツは、幕末に設置された幕府の洋学校である開成所と医学所にあるため、漢学特に儒学を教えていた昌平坂学問所とは関係がありません。


このページのトップへ